昭和49年2月26日 朝の御理解★


 御理解第75節『人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ』


 心の世界と。私は、信心は心の世界に住むことだと思うですね。自分の安らいだ心の中に日常がある。そういう稽古をすることだと。また、そういう道、そういう教えを、教祖様は下さってあると思うんです。
 昨日、たまたま熊本からお参りをして来た方に、ほんとに有り難いお話を聞かせて頂いたんですけれども。ちょうど、合楽に移るか移らないかという、まだ椛目の時代でした。熊本からたくさん、当時お参りがあっとりました中に、いつもあの、人を離れて一人で参って来るおばあさんがおりました。
 まあ見るからにその、何と言うですかね、まあ強情そうな頑固なおばあさんでしたが。もう合楽に見えたら、絶対私に会わにゃ。いっぺん私、ある時に東京からのお客さんがあっとったからですね、片の瀬の海水あの、水泳場に子供達連れて行っとったことがあったんですが、「せっかく来たから」と言うて、わざわざそこまで訪ねてくるというぐらいな熱心なおばあさんでした。
 合楽、椛目に参って来て、当時のね。「先生にお会いせんまま帰るっちゅうことはできんから」と言うて、わざわざタクシーであちらまでみえたことがございます。そういうおばあさんでしたが。
 もう実に変わった方で、お金はたくさん持っておって、お店も何軒か持っておる。けれども、一人者ですから、甥姪はおるけれどもその、「財産目当てにあれどんが来るとじゃから」と言うてその、寄せ付けられない。ただ、女中さんが一人その、おるというのでした。
 これはまあほんとに、今日の御理解頂いてから、昨日その話を思い合わせたんで思うんですけれども、ほんとにあの、何と言うですかね。心で人を傷付けるというか、殺すというような、言うなら、感じの人でしたよ。それがね、ある時に、私はこういう御理解をさせて頂いたんです。
 それがね、まあ今だから、昨日その話を聞かせて頂いて、それがその、やはり、ちょうど。プッツリあれからお参りがないと思いよったらその、それから間もなく亡くなられたという話。それを昨日聞いたんです。ね。
 もうだから、亡くなられたから言えるようなもんですけれども、もう、みえた時にですね、★こういう小さい引き出しをね、いくつもこう頂くんですよ。ね。で、神様がね、「引き出してやれ、引き出してやれ」ということを頂くんです。
 だから私は、その御理解を頂いた時に、「とにかくおばあさんね、地獄の沙汰はね、金次第というけれど。極楽の世界は金次第というわけにはいかんよ」ということ。ね。「だから、まああなたの一生涯のことを思うとです、言うなら、まああなたの、今ここで信心を頂きよりなさるから、まあここで改まって、まあ極楽行きになりなさろうばってんがね、あなたの過去の話を聞いただけでも、あなたとても極楽に行けそうにはないよ」と。「けれどもあなた、地獄の沙汰は金次第というから、ね。今の内にしっかり神様の御用でもさせて頂いときなさらな」という御理解をしたんです。
 そしたら、今まで参って来る間は、五百円が千円のお初穂がね、一万円になったです。そしたら、次に参って来る時には、二万円お供えされるんです。次に参って来る時には、四万円。あの時分にお初穂整理しとる人達が、「不思議なおばあさん」ちゅうてから話合ったことでした。それがちょうど十六万までありました。それっきり。
 それであの、私は、聞きもしませんし、「どうされたじゃろうか」と思って、忘れておったら、昨日熊本から参って来た方が、たまたまその人の話になりましてね、はあ、そんなら参って来なさらんはずですたい。もう6年も、言うなら前に亡くなっておられるから。おそらく十六万のお供えが最後のお供えだっただろうと思うです。
 そして、話を聞かしてもらうとですね、もう女中さんが言われるのに、もう亡くなられる前はもう、仏様のごとなっちょったっち言う。どうもあるわけじゃないけども、少し体がきついっちいう。
 その晩もですね、お風呂へ入って、頭を洗うて、女中に「洗うてくれ」ちゅうから洗うてやったそうです。そして、下着から何から替えて休まれた。もう腰どん揉んでもらってからもう「気持ちがいい、気持ちがいい」って休まれたんです。
 それで明くる日、いつも早起きされるのに、ご飯ができたからっちゅうて、女中さんが起こし行ったのなら、亡くなっておられた。もうそらもう、近所でたまがとったって、「あの強欲ばばが、ああいう死に方するっちゃもん」ちゅうてその、たまがるようなことでした、という話を昨日聞かせて頂いたんです。
 私はもう思わしてもらって、なるほど、地獄の沙汰も金次第だなと、御理解が身に付いたんです。だから、自分が長年、何十、もう六十何年間という間、もうほんとに人で、もうそれこそ、心で人を殺すような在り方。これじゃ自分もね、それが不思議ですよね、必ずその、されたお供えの倍ずつ、こうしていかれるわけです。
 だから、あれがまあいっちょ長生きしとったら、次にはもう三十二万お供えさしちゃるつもりじゃったじゃろうと思いますね。お金はたくさん持ちよるとですもん。
 そしてその、言うならば、自分、親先生が「地獄の沙汰は金次第」と仰ったから、んなら、金を積んででも極楽に、まあ極楽には行けんでも、地獄に落ちんですむようなおかげを頂きたい、と願われたのじゃなかろうかと私は思うです。
 私、昨日その話聞いて、もう亡くなられたからこんな話ができるんですけれどもね。そうでしたです。ほう、してみるとです、私は思わしてもらってその上に、亡くなられる時の様子から何から聞かして頂いてですね、まあ極楽とまではいかんけれども、地獄に落ちないですまわれた。ほんとにあれがまあちっと生きておられたら、極楽行きへの稽古もされとろうものに、と私は、それはほんとにしみじみ思いました。
 信心とはね、私は、ほんとに、ね。この世は、言うならば金で幸せになるように思うとるけれども、決して幸せにはなれません。と言うて、んなら、金があればその、言うなら「地獄の沙汰も金次第」というくらいですからね。金に物を言わせるということはできます。確かに。
 けれども、んなら、極楽というのはです、自分の心で有り難いという心に開けて行くということなのですから。言うなら、降ろうが照ろうが、昨日の御理解じゃないけれども、「いつでも有り難い」というのですから。ね。これが極楽。そういう心の開きというものは、んなら、金次第というわけにはいけんという。
 お互い信心させて頂いてです、ね。おかげを頂かしてもらうということの、そのおかげというのは、心に確かに「信心をすれば一年一年有り難うなってくる」という、言うなら、有り難じいさん、有り難ばあさんをお互い目指さしてもろうての信心でなからなきゃいけないということをね、改めてここで思わさせて頂きます。ね。
 そういう変わった、言うならそのおばあさんの一生をね、ほんとに、当時の椛目に御縁を、御神縁を頂かれて、「ああ、おかげを頂かれた」と私は思いました。ね。
 心で殺すだけではない、心で傷付ける。ね。あの人から、ね、それこそ突くように、刺すように言う人がある。それはやっぱり殺しはせんでも傷付ける。傷付ければ、傷付ける。始めてここであの、罰ということを教祖、言葉を使っておられますけれども、これはあの、普通で言う「罰かぶった」という罰とは意味がちょっと違うと思うですね。
 けどもそういう、そうするより表現がないですから、罰と言う言葉を使っておられると思うんですけれどもね。例えば、そういうんなら、心の重罪を犯した人でもです、神が見ておるということはです、ね。例えばんなら、監獄なら監獄に入れるということも、更生させたい為の親心なんですからね。金光教の信心の場合は。だから、罰ということじゃないです。ね。「改まらせたい」というのが、言わばお気付けですから。
 ですからあの、神様の機感にかなわぬ生き方を私どもが改めて、いよいよね、それとは反対に心で人を助けれる働き。ね。そうするとどういうことになりましょうか。ね。例えば、傷付けたり、心で殺したりするのが重い罪じゃということになるならね。心で救う。心で助ける。自分の心の光というもので、周囲まで明るくするというような働きをすれば、それとは反対にです、なら御褒美を頂くことになりゃせんでしょうか。ね。
 その御褒美というものが、私は御神徳だと思うです。ね。だから、信心はどうでもここんところに焦点を置かせて頂いて、しかもほんとに、御理解が生き生きとして、生きて働きに現れてきたという、昨日のこの話を聞いてね、熊本のそのおばあさんの話じゃないですけれども、ね。とにかく改まった生き方、そして、あのお国替えをされたということはね。
 まあ言うなら過去の罪がそれで消滅したというわけではなかろうけれどもです、言うならば、もう重い罪に合われないで、言うならば地獄に落ちられるけれども、地獄には落ちないですんだというような働きがね、そのお国替えの状態に感じられるじゃないですか。ね。私どもは、どこまでもその、「地獄の沙汰は金次第」といったようなことじゃなくて、とにかく、極楽の沙汰は金次第ではでけんのだからです。日頃、日々の信心の稽古の中に、焦点をとにかく「年々信心をすれば有り難うなっていく」というところに焦点を置いて、いよいよ信心さしてもらい、自分の心の光が周囲を潤す。自分の心の和らいだ心が、人の心を傷付いておるものでも癒す。
 もう、瀕死の重態にあるような人でも、それを救い助けることができるような心の状態を目指して、信心さして頂かなきゃいけませんですね。どうぞ。


明渡 孝